心身問題

心身問題とは、人の心と身体との関係に関する哲学のひとつ。人も生物であり、有機体という物質の塊であるものに違いはない。その有機生物に「意識」や「思考」や「精神」など、心の諸現象があらわれるのは何故かという、現在“ハードプロブレム”とされている問題の象徴ともいえる。

なぜ心身問題を解く必要があるか

“心”(と我々が呼ぶもの)は確かに存在し、それがあるからこそ我々の精神活動がある。何かを思ったり、感じたり、考えたりといったことは、物理的な活動とは別の領域であるように思われるが、しかし、精神活動が行われている(その中心)と考えられる“脳”というのは、物理的にはタンパク質の塊でしかない。そのギャップを埋めるべく問題解決を図ろうという試みが心身問題を考える動機である。

しかし、“心”は既にあるのだから、それを別の言葉でまた言い直す必要はないし、“心”はそういうものとして公理に配置しておけば良いのではないかという批判もある。つまり、それをわざわざ考察することで、科学的には何も有益な知見は得られないのではないか、という指摘である。しかし、“心”というのは、実際は我々が様々な物理現象を観察する上で最も根源にある主観であり、それがなければ、物理現象を観察する“眼”がない、即ち、その現象自体が観察できない(主観にとっては現象自体が存在しない)ということになる。

科学の現場ではしばしば忘れられがちだが、様々な自然現象を観察し、実験し、検証するといった科学の基本的研究活動を行っているのは人間である。つまり、それらの現象をデータとして記録したり、法則を導いたり、ある論文にまとめたりといった活動をしているのは、結局のところ、人間の精神活動であるといえる。

その精神活動、即ち“心”の根本原理が判然としないのに、自分たちがさも全ての客観であるかのように自然現象を捉えようとしていることは、原理のよくわかっていないブラックボックス的な未知のコンピュータを使って何かのデータ解析をしようとしているようなものではないだろうか。

とはいえ、精神活動を、同じく精神活動で解析をしようとすることは自己言及に他ならず、その際の考察は様々な難しい問題を抱えていることは否定できない。

二元論

人間の精神活動は、しばしば電気的なコンピュータの計算活動の各機能に置き換えて表現されることがある。かつて哲学者デカルトは、人間の心の諸活動について「心身二元論」を唱えた。端的にいえば、身体(という機械)と心(霊的なもの)に分離できるという考え方である。精神活動をコンピュータの計算活動に置き換えるという考え方は、暗黙にこの二元論を認めることになる。

コンピュータは、ハードウェア(中央処理装置 CPU, メモリ, 外部記憶装置 など)とソフトウェア(プログラム, データ)に分けられる。このとき、コンピュータは、ハードウェアだけではコンピュータとしての活動することはできないし、当然、ソフトウェアだけでもそれは不可能である(ソフトウェアがインストールされるハードウェアが必要)。この両者がお互いに機能を提供しあうことで、コンピュータとしての動作を成立させることが出来る。

人間についてはどうか。ハードウェアたる物体は、おそらく我々の身体(頭、手足、内臓、筋肉、骨など)であり、ソフトウェアは、いわゆる思考であり記憶であり、そうした精神活動である。そうすると、精神活動というのは、コンピュータの機能からいえばソフトウェアに相当するものであると考えることができそうである。ただ、コンピュータのソフトウェアについていえば、ハードウェアを交換しても同様の活動することができる。つまり、同じプログラムと同じデータを他のコンピュータへコピーすれば、そのコンピュータは元の(オリジナルの)コンピュータと全く同じ動作をすることができる。人間について、そのようなことが可能かといえば、かなり怪しいといわざるを得ない(そのような実例は今のところない)。

唯物論

そもそも“心”などというものは存在せず、その現象は、物質物体の諸機能から派生した機能のひとつとして“心”のような現象があるのだと考える向きがある。これは、霊的(精神的)なものを否定する考え方で、全てを構成するのは物質でしかありえないという“唯物論”の考え方である。

この考え方の場合、精神の座であるとされる脳なり身体が消滅すれば、精神も同時に消滅することになる。また、精神は身体の派生現象であるので、その精神を他の身体(ハードウェア)に移すことなどは不可能で、その意味で、精神と身体は不可分であるという考え方の一類である(そもそも“精神”を否定しているのだが)。

コンピュータの例を唯物論で考えるなら、ソフトウェアはハードウェアから切り離すことはできない。確かに、ソフトウェアたるプログラムやデータは、ハードウェアたる外部記憶装置なりメモリに書き込まれた(そう変質した)状態であり、それらのハードウェアがなければ、ソフトウェアがそれのみで宙に存在することはできないだろう。その意味では、人間をコンピュータへ投影することは唯物論といえなくもないか。

オブジェクト指向的諸段階

精神活動というのは、あらゆるものを認識し、それがそこに“ある”と知覚すること、そしてその連続であるということができる。つまり、何も存在しない状態から、何かが存在する状態をつくり出す、或いは見つけ出す主体が精神(活動)である。

精神活動の前提として、様々な抽象概念がその内に構築されている。それは何か物理的なことであり、何か精神的なことでもある。このようなことは、プラトンが“イデア”と呼んだもののそれに相当する。まずその抽象概念がなければ、我々は物事の存在を実体化することができない、そう前提する考え方を、“精神のオブジェクト指向”などと呼んでみることにする。

私たちが何かを知覚するときの、その諸段階を考えてみる。

初期段階(生まれて間もない時期、前提情報が何もない状態)においては、ダイレクトにその事物を視覚、聴覚、或いは触覚などにより感覚する。しかし、その時点での主観にはそれらの抽象概念がまだないので、それら感じられるものが一体何なのかを認識できない。少なくとも、それを意識的に感覚することはない。この時期の記憶は、おそらくない(形ある情報として書き込むことができない為)。

次の段階(ある程度の知覚経験をした状態、或いは学習した状態)においては、あらゆる事物の相同性、繰り返し認識される情報が主観の中に取り込まれ、知覚の前提となる抽象概念が構築されつつある状態に移行する。自分を保護しているのが両親であること、それが自分と同じ生物であるらしいこと、自分が現在いるのが下であり上は高い場所であること、その情報に基づいて自分や自分以外のモノは常に下向きに引かれていること、そういった“当たり前のこと”を抽象概念として自らの中に構築している。これらの概念は、もう少し時期が進むと、感覚する以前の前提条件として機能する情報になる。

更に次の段階(当たり前の前提に習熟した状態)においては、いわゆる当たり前ではない情報を意識的に取り込むことを始める。ここで“当たり前ではない情報”とは、本能や感覚に基づかない、知的な活動によって意識的に学習する情報のことである。何をすることが安全で、何が危険であるか、家の外へ出るとそこには何があるか、いったことのない場所、見たことのないものへ興味を持ちはじめるのがこの時期である。

この3段階を経ると、大抵の抽象概念が主観に前提されるようになり、いろいろなものをそれの派生物として認識できるようになる。認識できるということは、その情報は記憶することができるということである。外へ出れば、家族以外の人間と出会うことになるが、その主観には既に家族との出会いにより“人間”という抽象概念が構築済みであるので、他人も同じく人間であると認識する。そして、周囲に建っている家や建造物は、自らが今までいた家と同等のものであるだろうと認識する。そういった抽象概念の派生という認識の段階を経て、あらゆるものを、その精神内に実体化している。

まず、基本となる抽象概念(base class)があり、実際に認識されているものは、その派生クラス(sub class)の実体化(instance)である、という認識過程を考える。これは、コンピュータプログラムの構築概念のひとつであり、人間の精神活動もコンピュータプログラムと同様の構造認識をとっているのではないかというひとつの可能性を与える考察ではないかと考える。


自然科学・哲学系メモ


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Last-modified: 2010-05-15 (土) 12:08:18 (2746d)