悪魔に関する考察

「悪魔」とは、一般的に悪の権化、悪いことは全てその意思の働きによるものである、という責任を一手に負う存在。宗教的「神」が善であるなら、その対極をなす存在が「悪魔」とされる。

万能の対象としての悪魔

自然科学の分野で、しばしば悪魔は「万能」の存在として扱われる。つまり、自然法則を全て知り尽くし、また、自然法則に完全に従った働きを作用する存在としての悪魔である。有名なのは、決定論の議論における「ラプラスの悪魔」や熱力学の議論における「マクスウェルの悪魔」など。

この場合の悪魔は、あくまで自然法則を完全に捉えることのできる存在(即ち、人知の知りえない真理を知っている存在)であり、逆に言えば、自然法則を超えたことは為さない存在である。そのような存在は「神」かその僕である「使徒(天使)」に形容すべきとも思えるが、本来立ち入ることの出来ない聖域に土足で立ち入る存在という悪意的な意味合いが込められて「悪魔」とされているのだと思われる。

ただ、あくまで宗教的、道徳的な悪鬼(鬼畜)の類の「悪魔」とは区別されるべきだろう。

心理的な対象としての悪魔

そもそも、悪魔とは仮想、架空の存在である。それが人の文化の中に立ち現れてくる背景には、人の心理にそのような性質がある、と考えるのが妥当である。

人の心の内には、単純に区分けすれば、理性と本能とが並存する。本能は、生物として生きていく上で必要な(潜在)意識であり、知能であり、欲情である。対して、理性とは、社会的生物として生きていく上での意識であり、知能であり、欲情である。理性は本能が剥き出しで表象するのを抑える働きをすると考えられる。

本能としての意識は、基本的に自己と自己の子孫が生存していく為に有利になるように働き、そう望む。これは時として、自己以外の他者を排除するように働くこともある。即ち、自己の存在を脅かす、或いは、自己よりも優生な個体を排除し、自らの安全と優位性を確保しようという動機である。これは、生物としては至って合理的な心理である。

実は、悪魔というのは、このような排他的心理を具体化(具現化)させた仮想生物である、ということができる。他者を排除するということは、その他者(排除されようとしている対象)にとっては悪意に他ならない。また同時に、自らも他者からそのような悪意を向けられる可能性が常にある。生物としては納得できる心理であっても、人間社会という集団の中で生きていく上では、自らのそのような意識を理性によって抑え込み、それと引き換えに、他者にも自らに対する悪意を抑えてもらう、という暗黙の約束を制定する必要があるだろう。

本来、人間(生物)の心理の基本(ベース)に悪意があるということを認めなければならない。即ち、人間とはみな基本的には「悪魔」であるということである。それを理性で抑えて、社会的(理知的)生物としての存在を不安定にも確保している。悪魔と対極を為す神という善なる存在を据えることで、人は悪魔を排除しようとし道徳性を保っているのであり(善意(理性)に背けば神によって罰がくだる、などとする)、その神は、善意の定義や道徳の相違により、ときとして他者にとっての(また、自己にとっての)悪魔に変貌することも留意しなければならない。

悪魔が現れる理由

心理が剥き出しの悪魔となるか、それが理性により抑えられるかは、その時点での人の心理状態に左右される。大抵の場合、人間は社会的に生存していかなければならず、また、社会的に調和して行動した方が人間社会では有利であることを理解しているので、心理的には理性が優勢の状態で定常する。

しかし、心理的に高い負荷がかかったり、何らかの衝撃により傷つけられたり(心的外傷というのは、実際に脳内の一部が物理的に傷つくらしい)、また膨大な、或いは継続的な長期のストレスによって心理状態が揺さぶられると、理性が破壊され、またはその働きが極めて弱体化し、本来的な心理である悪魔が表象してくる。

このことは、逆に自らの心理状態を推し量る客観的なバロメータとして利用することもできる。自己以外の他者(或いは自己自信)に対する悪意が心理に立ち現れる頻度が高い状態というのは、理性が通常よりも弱体化している証拠である。そして、他者に対する善意が心理に立ち現れる頻度が高い場合、理性が通常以上に稼動している状態であると考えることができる。その見地から、あらゆるものに無関心状態というのは、いわゆる均衡状態であると考えられ、そこに何らかの心理的衝撃が加わると、忽ち悪魔が登場してくる危険があるだろうといえる。

例えば、偶然交通事故現場に通りがかったとき、野次馬根性よろしく貴方はその現場を覗こうとする。その事故の深刻さが大きいほど(車数十台を巻き込んでいるとか、死者が出ているなどの状況)喜びを覚える心理は明らかに悪魔の方に傾倒している状態であろう。また、その深刻さが小さいことに喜びを覚える心理は理性(神、天使)の方に傾倒しているといえるだろう。

自らが不幸であれば、他者の不幸によって自らの喜びが大きい方へ推移し、自らが幸福な状態であれば、他者の幸福もまた自らの喜びの大きい方へ推移する(他者の不幸は自らの不幸となる)ということである。

伝染病としての悪魔

悪魔は、一旦それが社会的に正当化されはじめると、とどまるところを知らず周囲の人々へ伝播する傾向がある。これは集団心理の働きであり、自らはそもそも悪意を本意としているが社会がそれを許さないので理性的にならざるをえないのだけど、自ら以外の他者集団が悪意を一般的に行使し始めると、自らの悪意を抑えておく理由と必要性が薄弱になる為、結果悪魔を表象させる。これがドミノ倒し的に広がっていくと、悪意が一般化してしまい、それが常識化するという危険性がある。

この場合、その悪魔は、必ずしも絶対悪であるとは限らない、ということも付け加えておかなければならない。悪の定義というのは、そもそも非常に曖昧であり、善もまた然りである。この場合の悪とは、従来の一般常識の基準から考えた場合の悪であり、例えば、将来的に「殺人」が正当化する時代が来るのであれば、それは善に変わりうる(それが常識となる)という可能性があることを指摘しておく。


自然科学・哲学系メモ


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Last-modified: 2010-05-15 (土) 12:08:12 (5085d)