Top > ドラえもん最終回

この記事を読む前に、最初に理解しておいて欲しいことがあります。ドラえもんの最終回(といわれているもの)は、過去に3度(※1)描かれていますが、実際には、その後もドラえもんのストーリーは続いており、その意味で、本質的なドラえもんの最終回というものは存在しません(少なくとも、公式に発表された作品としての最終回は存在しない)。つまり、実しやかに世に流れているドラえもんの最終回説というのは、全て原作者の関知しないところでつくり出された話ということになります。

※1 原作者 藤子・F・不二雄 の手によって描かれた最終回は次の3作。

  • 「小学四年生」3月号(S46)に掲載されたもの
  • 「小学四年生」3月号(S47)に掲載されたもの 
  • 「小学三年生」3月号(S49)に掲載されたもの

学習雑誌上の最終回というのは、その特性上、次の学年へ上がる読者へ向けられた「お別れ」の意味で描かれたものです。実際に、翌年の「小学四年生」4月号からは、相変わらず「ドラえもん」は掲載されていました。ただ、一番最近(といっても昭和49年)に描かれた「さようならドラえもん」(初出時は「未来の世界に帰る」)は、一部加筆修正されて単行本(てんとう虫コミックス「ドラえもん」6巻)にも掲載され、次編の「帰ってきたドラえもん」と合わせた形で、映画作品(※2)としても公開されました。

※2 映画「帰ってきたドラえもん」 H10,3,7封切
(映画「のび太の南海大冒険」の同時上映作品)

さて、ここでは、そうした最終回以外の、いわゆる「風説としての最終回」がなぜ流行るのか、或いは、そうしたものがつくられる背景について、少し考えてみます。

まず、風説としての最終回にはどのようなものがあるのか?おそらくそのきっかけとなったのは、1986年頃に流行した「のび太は植物人間だった」説が流れ始めたことでしょう。その話が様々に改変された“亜種”的な話も次々とつくられていきました。また、それ以外にも、別の系統の話も流れるようになり、いわゆる「都市伝説」として世の中に語られるようになっているわけですが、その内容の多くは、いずれも悲劇的な展開です。ドラえもんという作品は、そもそも基本はギャグストーリーであり、その内容は子供向けに書かれた、いってみれば“健康的”な内容です。風説の多くは、そのような内容からは予想できない意外性を狙った展開、という意味では共通しています。そして、いずれもマイナスの方向(悲劇)に展開しているところも同様です。

なぜ、悲劇として描かれるのか?

このような風説のターゲットとしては、おそらく、昔(子供時代)ドラえもんを読んだりテレビアニメで見たりして育ってきた現在の大人たちであると考えられます。そして、ドラえもんを知っている多くの大人たちは、「その最終回は一体どうなるのか」ということに興味を持つでしょう。そのような欲求に一部屈折した形で応えたのが、風説としての最終回なのだと思います。

ただ、そうした最終回説の中には、一度マイナス方向に展開したものの、結果的にはハッピーエンド(?)となるケースのものもあるようです。チェーンメールで流行ったものの中には、「のび太植物人間」説の他に、「ドラえもんが電池切れになる」というものもありました。ある日、ドラえもんが電池切れで動かなくなり、電池交換をするとドラえもんの記憶もなくなってしまう、という状況に陥った後、その後成長したのび太が科学者となって、記憶を消さずに動くようにする、というものです(そのドラえもんが20世紀ののび太の部屋へやってくる?)。

ここで、ドラえもんの最終回として書かれる話は、大きく2種類に分けられることに気づきます。ひとつは、ドラえもんという作品を単にネタとして扱ってとにかく面白おかしくしてやろう、という意図のあるものです。もうひとつは、ドラえもんという作品には最終回がないけれど、「もしあるとするなら、こういうのはどうか」という試みで書かれているものです。前者にも後者の要素はあると思いますが、後者を、仮にドラえもんのファンが書くとするなら、前者のような意図は入らないと思います。その意味で「のび太が植物人間」系統の風説は、明らかに、ドラえもんや藤子Fファン以外の人の手によってつくられたものだとわかります。とにかく“明るく健康的なイメージ”(一般に認識されているイメージ)の作品を、全く逆の暗い方向へ展開させて面白がっているだけでしょう。それに対し、「ドラえもんが電池切れ」の話は、ファンの思い入れで書かれた部分もありそうな臭いがします。

追記:
「ドラえもんが電池切れ」の話の方は、もともとあるドラえもんファンの手によって書かれ、自分のWebサイト上に、それが「自作」であることを注釈した上で公開されていたもののようです。この場合、それを何者かが(無断で)チェーンメールで流したことに問題があります。

大体、ある作品が有名になってくると、その内容をからかうような話題が沸いてくるものです。ドラえもんと同じように長谷川町子の「サザエさん」なども長寿作品ですが、これも同様に最終回がなく、同様の風説が出回っていたように思います。つくり話としては、それらの平和的な物語がそのまま平和的に終わるよりは、悲劇にした方がドラマチックで、かつ人々の興味を惹きます。その方が人は聞く耳を持って、されに、その意外性を他人にも教えようと思うものです。そして、そうした話に真実味を持たせるような様々な“付録”もついてきたりします。実は作者は誰それをモデルに作品を描いていた、であるとか、関係者にそのような話を漏らしていた、などなど。

こうしたつくり話が書かれることそのものは、そもそも問題ではありません。問題は「それが本物だ」とされて流布されることにあります。そのような背景には、世間にそのような説(本当は嘘なのに、さも本当のことのように語られる)が流行っていくこと自体を楽しむような輩がいる、ということ。そこには、コンピュータウィルスをばら撒くクラッカーのような精神があると思います。チェーンメールなどを利用するあたりは、まさにそのものですね。

とにかく、それらの都市伝説については、あくまで原作者とは関係ない“別の話”として理解した上で接する必要があります。

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Last-modified: 2010-05-15 (土) 13:15:40 (5264d)