ライフスフィア論考

前提

まずは、

  • 自分の認識が必ずしも正しい(正常)であるとは限らない。
  • 自分の感覚はもしかしたら狂っているのかもしれない。

という観点を忘れることなきよう。

以下は、ひとつのフィクションである。(今はまだ)

“考える”の定義

《機械》は《考える》ことができるか。

《機械》とは何か。

ある一定のメカニズムとロジックに従って動作するものが《機械》と定義するなら、 究極的には人間(の脳)も《機械》である。

その材料は無機物でも有機物でも本質的にはかわらないであろう。

ただし、有機物の集合体である脳が表出するものは、 無機物の集合体であるコンピュータなどのそれとは異なるであろう、 という当然の予測は立つ(材料の違いによる性質の違い)。

同等ではあるが同質ではない。

コピー人間

全く同じ材料で全く同じ機構を持つ人間を2人以上つくれるとしたら、 彼らは同一人物といえるだろうか。

例えば、《私》と同じ材料と《私》と同じ設計図をもって人間をもうひとりつくった場合、 そのもうひとりの人間は《私》なのだろうか。

認識として、主観からそれを見れば客観的な《私》をみることになる。 しかし、それは主観でない以上は《他人》。

一卵性双生児

一卵性双生児の場合、やはりお互いにそれが《私》即ち《自分》とは認識していない。 他人である。 そもそも、《私》という認識そのものが高度なので、 まず《他人》という認識が先行して、その後で《私》を認識して、 ああこの人は《私》とよく似ている《他人》だ、となる。

私の連続性

さっきの《私》と今の《私》は、同じ《私》なのだろうか。 また、今の《私》と1分後(1秒後)の《私》は、同じ《私》なのだろうか。

このことから、次の論点を提起できる。

  • 私の連続性。
  • 切り離すことができない本質。

そもそも、それは実現不可能という言及。

実現不可能とういうのは、どんなに技術が発達しても、 物理的にそれをすることができないということ(理論上もできないということになる)。

《私》からの脱却

  • 《私》が《私》である以上は、《私》以外の何者の主観にもなり得ない。
  • 《私》という檻に入れられた感覚(それが主観)。

では、《私》を離れた完全なる客観などというものは存在するのか。

多くの場合、モノゴトの当事者ではない第三者の視点、 若しくは、不特定多数の視点全体(その平均値)を《客観》という。

しかし、《私》というのは、どこからどこまでが《私》なのか。

  • この肉体に関する限りが私か。
  • 私が感覚する限りの私が私か。
  • その私を認識している他者(のみた私)を含めて私か。

《私》という認識

《私》という認識は単一の機能に由来するものではなく、 様々な機能が複合した結果として現れた認識ではないか。

  • 何かを認識する機能。(第一主観)
  • その認識を外から認識する機能。(第二主観=擬似客観)

少なくともこの2段構成が必要。

自我が目覚める、物心をつく、 ということはどういうことかを考えたとき、 自分を何らかの形で表現することが可能になるということと、 そう表現する手段を得るということが必要になる。

自我を表象として捉える、ということ。 第一次主観的な状態のままでは、自我は認識できない。

アフォーダンス

生物が能動的にそれをしようと動機する対象。そうさせることがら。

いわゆる意識の志向性。

  • 「押しボタン」は、人間に「それは指で押すものだ」と認識させる。
  • 同時に、人間はそれを押すことができる。
  • 同時に、人間は目的達成の為にそれを押すという行為をする。
  • このことがらを理解するのに説明は不要。

与えられた能力と可能性から、事物の本質を探る方向。 つまり、できないことは存在しない。 可能性のないものは存在しない(自然的な考察)。

人間は生まれたときから、自分の手足の使い方を知っている。 ものを持つアフォーダンス。這う、歩くアフォーダンス。

自然に存在し得る物事を無理なく想定することが、 本質問題を解決する近道になる。

実物と想像

何か事物を実際に(視覚、聴覚、触覚などによって)感覚したそれと、 想像の中における同じ対象のそれとの違いは何か。

例えば、バラという花。

  • バラを見る。
  • バラを香る。
  • バラに触る。

その感覚は、その経験が1度でもあれば想像可能である (1度も経験がない場合は、全くの想像になるが)。

同じバラを写真などに撮影する。あるいは、記憶として思い出す場合、 その視覚、嗅覚、触覚の感覚は、同一であるか、別物であるか。

バラの持つ質感、つまりクオリア(Qualia)というアプローチ。

同一性

ある記号(文字)、例えばアルファベット「A」。

  • その「A」はこの「A」と同じであることを直感で知っている。
  • 「B」と書けば、それは「A」ではない。

なぜ同じであるといえるか。なぜ違うといえるか。

「人間」は同じである。「人間」は「人間」である。 抽象としての人間。記号としての人間(イデア)。

実体は同じではないということも了解している。 それは、自分と他人が違う具体であることを直感で知っているから。 同様に、異なる他人同士も互いに同じではないことを知る。

どこに同一性をみて、どこに異なるものを見るか。

形。材質。言葉。占有空間。意識。独立性。空気。性質。メソッド。

曖昧さ

何かを感覚することは絶対的なことではない。 人はおよそモダリティによる表現をとる。

命題を言い切らず、自分の感覚ではこうである、 おそらく他人も同じようであるだろう、という予測を立てて、 その同意をとろうとする。

感覚は事実として絶対的なものといっても良い。 それを外向きに表現する際に、 その記号化されたものが正しい表記であるかどうかについて不確実性を感じる。

外界と内界

どこまでが内でどこからが外か。 その境界の定義がそもそも曖昧。

自他の区分けの明確な境界線は定義できるかどうか。 全て自であり、同時に他であるという同一性の持込み。

  • 拒否反応による区分け。
  • 免疫的自己。
  • 意思の到達範囲としての自己。

自分の手は自分の意思で動くが、自分でない目の前のグラスは自分の意思で動かない。 もし動くなら、それも自分か。

時空における理解

何かが存在するということは、 その「何か」は、時間と空間を占有するということ(現時点の合理的理解)。

同じ時間と空間を同時に占有することはできない(排他原理)。

この理屈は、4次元における感覚として直感可能だが、 さらに高次の座標系を想定した場合にどうだろうか。

量子論における不確定性の中では、 同じ時空を異なる素粒子が同時に占有する可能性を許している(波動関数である限り)。 波束の収縮によって排他原理がきいてくる。

心の場所

かつて「心」は「胸」の中にあるといわれていたが、 科学の発達によって、その所在は「脳」つまり頭の中、 というのが一般的になっている。

ところで、昔の人は、なぜ心が「胸」にあると思ったのか。

ものを思考する臓器として「脳」がある。 ということは、その主観が感覚するということは、 「脳」がそう認識しているということになる。

眼で見る。耳で聞く。手で触る。

これらの感覚は、眼耳手で感じているのではなく、 その信号を脳がとらえて理解しているのだと。

ないはずの四肢の感覚が残る「幻肢」は、 脳が経験や記憶による感覚を事実であると誤解することによる症状とされる。

感覚は脳が担っているのは確からしい。

しかし、精神や心の所在も同様かという疑問は、 いまだに完全解明に至らない。

同根から違うものが派生するということ

初期の条件が同じで、過程も同じであれば、結果も同じである。
(ラプラスの悪魔)

これは正しいか。

実際の現象にはカオス的側面があり、 わずかな擾乱によってその結果は大きく異なってくることもある。 ただし、「似ている」という状態に至ることは大いにある。

完全に同等の初期条件と過程を考えた場合、 結果も完全に同じであろうというのが決定論的立場。

動機の根拠

何かを発動する、起動する、動作するその目的因、 それが同じである場合でも、 実際の動作方法は異なることがある。

つまり、目的に至る方法が複数存在する場合、 そのいずれが選択されるかは任意である。

ただし、自然の傾向としては、 最も合理的、もっとも省エネルギー的な方法が選択されやすい。 ただし、選択者(行為者)がその選択肢を知っている必要があり、 行為者自身が知っている限りの中で最も合理的なものが選択される、 ということになる。

選択肢を知っているかどうか。 事前に何らかの学習をすることで選択肢を増やすか。 直感によって選択肢を発見するか。 他者によってその選択肢が示されるか。 (その他者にも同様のことがいえる)

うち、直感でそれを発見する、つまり、 アプリオリに知っている選択肢というのは、 最も自然的ではないか。

そしてその選択肢は、個々により異なる(個性があるという本質)。

世界の連続性

私の意識がなくなれば、私における世界はなくなる。 私にとっての世界は、私が認識する限りの世界全体であり、 それ以上ではない。

私の認識していないところにも世界(の部分)はあり、 それは私ではない認識によって理解されている。

ところで、何者にも認識されていない領域は、 存在していないのだろうか。 つまり、認識されて初めて世界は表象するのか。

普遍的に存在する世界であるならば、 それは認識には関係なく永遠にそこに存在し続ける。 (有史以来の宇宙に関する限りであるが)

では、宇宙の始まる前におけるナニガシかは、 どのように定義すべきだろうか。

当然、それを認識する主観は存在しない。

世界は、実は認識によって開拓されているのではないか。 まずイデアのみがそこにある(プラトニックにいって)。 そこに認識が加えられることによって具象化する。

  • イデア=クラス
  • 具象化=インスタンス化

実行コードにおいて、 実際にそのコードを通るまで定義のみ存在している。 まさにそのコードを通ったときに実体化し、 世界として立ち現れる。

ゲーム世界の表示されていない部分を考える要領。

チューリングテスト

ある「知性」がそれを「理解」することをテストする。

その「知性」に対して質問し、その回答をみて、 それが知性であると誤解するレベルであれば、 それを「理解」しているといっても良い。

つまり、箱の中に「人」か「機械」が入っている。 その箱に対していくつか質問をする。 その回答をみて、その質問者が、 箱の中身は「人」である、と思うなら、 その箱の中身が「機械」であった場合に、 その機械は質問を「理解」しているといって良い。

理解しているかしていないかは、 その対象物の主観になってみないとわからない。 しかし、それは不可能である。

ゆえに、ここは「みなし」の理解、 擬似的な理解としてとらえるしかない。 私という主観からみれば、人でも機械でも同じ。

認識のノード

世界は認識の集合であるという考え方によれば、 私(の認識)という点は、 認識ネットワークのノードの1つであるといえる。

ただし、この場合、 認識のネットワークが行き届いていない領域に関して、 どのように定義すべきかが解決できない。

ネットワークが延びることで世界が現れるか。 世界があるところにネットワークが延びるのか。

少なくとも、ノードが存在する領域に関する限りは、 そこに世界が存在している。

ゼロの発想

何もない、という思考自体があるので、真のゼロはない。 しかし、論理的なゼロ、概念としてのゼロは存在する。

無いのに存在が定義できる。

ならば、本当は「在る」のではないか。 可能性があるものは、何らかの形で存在するのではないか。

しかし、それにつけても「ゼロ」は、 「無い」という概念なのだから、 「無い」ということが「在る」というのは矛盾。

語句としての命題は真かもしれないが、 事実としては偽であることが許容されている。 そのような理解が存在し得る。

抽象と具象の隙間

何かを論じるとき、論じたれたそれと、実際のそれとは、 厳密な意味(ありよう)において同一ではない。

定義=実在 ではない。

実在は定義を満たすが、定義は実在を完全に表現していない。

関係としては、抽象<具象。

具象はいくつかの(複数の)抽象を規定に持つ。 それらが感覚に上る実体となったときに認識される。

「心」は抽象で、「私の心」は具象。

つまり「私の心」には、 一般的な「心」という抽象以外の属性も含む。

時間経過の感覚

「時間が流れる」という感覚を持つが、 それは"感覚的には"主観的なもの。

時間そのものはは実は止まっているのかもしれない(即ち、時間などというものは最初から無い)。

感覚がある便宜上、時間の経過というものを想定する必要がある。 何かを感じるには、それにかかる時間が付随する。

ものが一定距離を移動するという物理現象を考えたとき、 その起点から終点までの移動過程が必ずある。 これにかかる間隔を理解する上で「時間」という考え方を使う。

絶対的な時間とうものはそもそもないが、 物理座標系として線引きされる時間軸というものはあって、 その意味でいう時間は定性的なものである。

座標上では空間軸と同様の扱いを受けるが、 感覚においては別種のものと捉えられる。

いわゆる空間軸では、ある程度その移動方向が自由である。 しかし時間軸においては、移動方向が一方向である。 (過去から現在、現在から未来。その逆は無い。) 数理上は時間軸の移動も想定可能であるが、 それはあくまで理論上のもの。

感覚的な時間の流れと、この理論的な時間とは、 果たして同種のものであるかという疑問。

言葉ではない表現

  • 例えば、音。
  • 例えば、光。
  • 例えば、触感。
  • 例えば、香り。
  • 例えば、味覚。
  • 例えば、音楽。
  • 例えば、絵画。
  • 例えば、演劇。
  • 例えば、表情。
  • 例えば、風景。

現実の証

私たちが現実だと思っている世界。

これが現実だ、と思っているのはなぜか。 どこにその証があるのか(映画『マトリックス』の世界)。

現実も仮想も、どちらも結局私という認識(主観)の中における、 現象世界の感覚と理解に過ぎない。

夢を見ているときの認識と、 現実(と思っている)世界を見ているときの認識の違いは何か。

いずれかの世界に身を置いているとき、 互いに相対の世界を仮想と思ってはいないか。

明晰夢においては、それが「夢」であると認識される。 つまり、背後に夢より次元の高い固定された現実の世界があると認識される。

実は、この現実世界よりもさらに現実(超現実)の世界があって、 この現実世界において明晰夢状態になれば、 その超現実を認識するに至るのではないかという疑い。

さらに実は、昨日と今日は連続しておらず、 一度睡眠によって意識が低レベルに落ちたら、 別の次元の現実へ遷移しているのではないか。 眼が覚めたら、以前の記憶がすっかり新たな現実に最適化され、 さも昨日から連続していたかのように錯覚して生活している。 (…というSFを想定する余地)

とにかく、現実が絶対的世界であることへの疑念があるということ。

論理空間

人類の文明の発達が急加速したのは、 「言葉」の発明とほぼ時を同じくしているという。

つまり、明確な記号化された意味を表す言葉を使用することで、 人類は知識を発見し、保存し、継承することができるようになった。 それによって、人類の知的レベルは飛躍的に上がった。

しかし、このことは同時に、 言葉による表現以上のものを獲得できる可能性も示唆している。

人類(原人)が言葉を使用する以前は、 身振り手振り、鳴き声などで意思疎通をしていたと考えられている。

そこから、言葉という道具を得ただけで、 格段にレベルの違う知性を得られたことに注目する。

ならば、言葉よりもさらに高効率の意思疎通方法があるなら、 それによってさらなる知識発達がありえるのではないか。

人類の知識は「言葉の檻」に制限されている。

脳の感覚の有限性

言葉にならない感覚も脳は持つことができる。 しかし、世界全てを感覚することはできないだろう。

単純に、言葉にならないものを表現できないだけでなく、 脳が感覚として許容できる事象にも限界があるのではないか。

なにがしかの事象が目の前で起こったとしても、 それを脳が把握できるものでなかった場合は認識できない。

相互作用の強弱、有無の問題もあるが、 解釈や認識が可能かどうかの問題に関する問題提起。

必要性

脳が何かを感覚するのは、 生物として生存していくために必要な情報のみではないか、 という合理的理解。

それに必要の無い情報はそもそも切り捨てられている。

つまり、感覚されているモノゴトというのは、 全て「必要である」ものだということもできる(この観点から考えると)。

器官としての脳

脳という部分の役割は考える、感覚する、とされるが、 それが脳に所在するということを明確にいうことはできるのか。

反応が活発なのは脳のニューロン発火現象などで明らかだが、 その際にも心臓の鼓動は早くなり、呼吸も忙しくなったり、 つまりモジュール化して考えることの妥当性は、 どこかで決着されているのかどうか、という問題提起。

自由意志

すべて初期条件によってその後の成り行きは決定されているのであり、 それは自由意志にはならないのではないか。

つまり、自由だと思っているそれは、 かつての初期条件とその動向を決定する法則があることを、 行為者が忘れている、あるいは知らない為に、 自由だと勘違いをしているのである。

このような行動をしているのも自由意志ではなく、 全て最初からシナリオにあった事柄。

運命

この病気が治る運命なら、医者にかからずとも治る。
この病気が治らない運命なら、医者にかかっても治らない。

後者の実現可能性は高いが、前者は無理目な感じがする。 「治る運命」には、医者にかかるということまで含まれた運命ではないか。

光の特殊性

光、光子、光量子は物理学の世界では特殊な扱いを受ける。 質量 0。光の速度を超えることはできない(相対性理論)。

しかし、光というのは、 いわば人が勝手にそう定義したものではないか。

「今」への疑念

「今」感覚していると思っているそれは「今」のものなのか。 「今」の定義としては、感覚された瞬間そのときをいうということであれば、 感覚された瞬間が、過去でもなく未来でもない保証はあるか。

厳密に言えば、わずかに過去の事象となる、 という回答が一般的。

マッハの原理

物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる。

時空において、あらゆる物理現象は、 そこに存在する物質の量と分布の仕方によって決まるものだという考え方。

茂木健一郎氏の発展

認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、
そのニューロンと同じ瞬間に発火している他の全てのニューロンとの関係によって、
またそれによってのみ決定される。

氏はこれを「認識におけるマッハの原理」と呼ぶ。

サブリミナル効果

時間の命題を考える際、 そこに流れ自体(文脈自体)にほとんど関係のない、 不連続な事象を1コマ(あるいは数コマ)はさんだ場合、 それはほとんど意識には上らないにも関わらず、 実は感覚(認識)しているという状態がある。

それは記憶には残りにくいので、 時間の流れからはずれたものと考えるべきものであるが、 それは即ち、時間の流れからはずれたものは、 記憶に残らないという逆提案であるとも考えられる。

ファクシミリ論争

その物体に関するあらゆる全ての情報を、 ある地点から別の地点に完全に転送できるとする。

地点Aにある物体aの情報を地点Bに転送し、 その情報のとおりに物体bとして再構成した場合、 物体aと物体bは同一であるといえるか。

注意すべきは、 物体aを構成していた物質が転送されたのではなく、 物体aの情報が転送され地点Bにおける物質を材料として、 物体bがつくられるという点。

物体aに意識なるものがあった場合、 物体bにも同一の意識が現れるのだろうか。

はやい話、物体aが人間だった場合、 物体aと物体bは同一人物といえるだろうか。

すこし問題を変えて、 転送されるのが物体aを構成していた材料そのもので、 その材料で物体bとして再構成された場合、 事態は変わるだろうか(物体としては同じ)。

同時性

出来事とそれを感覚するのが同時である、 と暗黙に前提される。

しかし、実際はそうではなく、出来事が光や音やその他何らかの形で、 人の目や耳や手足などの感覚器に情報が伝達するまでに時間がかかり、 さらに感覚器から脳へその信号が到達するまでにまた時間がかかり、 さらに脳でその信号が情報として処理されるのに時間がかかる、 であるので、出来事は必ず感覚より過去のものであることになる。

しかし、脳で処理されアウトプットされた情報しか 人は認識しないので、それら全てを同時と感覚する。

次世代言語

世界を言い表すことのできる言語の開発。

  1. 自然言語
  2. 数学言語(代数学、幾何学)
  3. ???

ひとつの提案としての「プログラミング言語」。

プログラミング言語というのは、 まさにモノゴトの動作をロジカルに記述するためのものである。

プログラミング言語は、コンピュータ上においてあらゆる表現を可能にしている。 テキスト、音声、画像など、現実世界に実在するあらゆるものが、 コンピュータ内の論理空間において再現できる。

その言語によって、現象が完全に再現できるならば、 その言語は現象を論じ得た(記述できた)、といえるのではないか。

目の前に在るリンゴの存在について、 自然言語で切々と語ってもその全ては伝えきることができないが、 そのような3D映像などで描画し完全に再現するプログラムを書いたなら、 そのプログラムはリンゴを記述できた、といえないだろうか。

自然言語、数学で表現できない統括的な表現形式としてのプログラミング言語は要注目。

現存するプログラミング言語はまだ原始的だが、 言語は様々な形を取りながら進化を続けている。 今最も進化が速い言語はプログラミング言語であるといえるのではないか。 (フラットな構文から、オブジェクト指向、アスペクト指向という具合。)

今後さらに開発される言語が期待される。

「夢」をみているときの人の認識は、 完全にその夢の世界の中にいる場合と、 それが夢である(現実ではない)と認識している場合がある。

前者の場合、現実は切り離されているのか。 後者の場合、現実ではないと感じながら夢の世界を「見下ろしている」感覚。 しかし、あくまで当事者は自分であり、 自分が活動している世界を客観的に同じ自分の視点がら見ている という奇妙な状態である。

バーチャル世界

コンピュータという道具を得た人間は、 コンピュータの中に自分たちのいる「現実世界」に似せた、 いわば「仮想世界」を作り出そうとしている。

人間の主観が、 仮想世界をコントロールする「神」を演じるものになる。 そのような視点を得ることで、 現実世界の上位から観察する方法も得られる可能性があったが、 結局、人は、仮想世界の「神」ではなく「住人」になりつつある。

最初から客観は幻想であったということか。

既成理論は誤っているのか

既成の理論が誤っているから、一向に世界の真実に近づくことができないのだろうか。

否。

誤ってはいないが、非常に遠回りしているだけである。

人が発見したりそれについて論述し、 ある程度の整合性、妥当性、再現性が示されるならば、 その論は誤ってはいない。

確かにその事象について正しく語っている。

しかし、それがすぐその他の難問を解く方法論になりえるかといえば、 そうではないことが多々である。

物体の落下について、ニュートン力学で語ることができる。 天体の運動について、相対性理論で語ることができる。 素粒子の振る舞いについて、量子力学で語ることができる。

いずれも間違っていない。

天動説も、地球を静止点とみなすなら間違いではない。 ただ、それで天体の運動を説明しようとしたときに、 非常に複雑なロジックが必要になるということで、 地動説ならば、よりシンプルに同じことを説明できるというだけなのだ (オッカムレーザー)。

ニューラルネットワーク

これは脳内だけの話ではなく、 宇宙全体の《ネットワーク》としてもともと存在する。

つまり、そのような相互作用、相互関係で、 事象は互いに存在を維持しているのであり、 存在するということは、 《ネットワーク》がつながっているということの証である。

ここはむしろ《ネットワーク》ではなく、ある広がりを持つ空間、 《スフィア》という言葉を充てる。 線状の結びつきではなく、空間的な(もっと多次元な)接触を考える。

ニューラルスフィア

さらに、ニューロン(神経細胞)というのは、 それを感覚、知覚する経絡に限定的であるので、 そのようなものを包括する生命、《ライフ》という言葉を当てはめる。

ライフスフィア

生命は、それ自身を自己言及しても成立するもので、 構造的にフラクタルなものであり、 宇宙から素粒子以下の原初に至るまでの全ての過程と様相全てということである (オートポイエーシス)。


自然科学・哲学系メモ


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Last-modified: 2010-05-15 (土) 12:08:11 (5093d)