ラ・メトリ(J.O.de la Mettrie, 1709-1751) †「人間機械論」(L'Homme-machine, Leoden-1747, Berlin-1748)において、機械論的唯物論に基づく人間観を披瀝している。その考え方は概ねデカルトの人間論からその精神に関する部分をすべて除き去った考え方。 「経験」と「観察」 †かくて、経験と観察のみがこの場合われわれを導くべきものである 17世紀のデカルトにおける学問の原理が「直感」と「演繹」であったのに対して、18世紀の哲学者たちにおいては学問の原理は「経験」と「観察」である。18世紀大陸においてデカルト主義は急速に衰退していき、かわって英国経験論の強い影響下にニュートン主義が支配的になる。 生理学・医学 †医者だけが人間の迷宮を遍歴する 人間を論じるにあたっては、生理学、医学の知識を備えていることが条件となる。 発言権のあるのは生理学者のみである ここには近代的傾向としてのパターナリズム(父権主義)の萌芽がみられる。専門的知識を備えたものだけに発言権があるという主張である。 さらに「人体の諸器官を通して、霊魂の姿を見分けようと試みること」を主張しつつ、ラ・メトリは精神(霊魂)でさえも生理学の対象であることを説く。これはデカルトにはなかった考え方である。 → 唯物論 人間を定義することは不可能である 「人間の本質そのものを正確に発見できるとはいわない」(不可知論)が、しかし「可能なる限り、最高度の蓋然性に到達」しなければならない(進歩主義)。加えてここには近代科学に特有の進歩主義的不可知論とでもいうべき態度が表れている。これは、近代科学が共有する態度である(本質認識は不可能であるという立場)。他方、最高度の蓋然性(the muximum probability)を確実性(certainty)にすり替えることによって、思弁的哲学の知に対する経験科学の知の優位性を主張する。 人間機械論 †人体は自らゼンマイを巻く機械である 一見したところ、ラ・メトリはデカルト同様、身体機械論を主張しているだけのようにも思える。 魂の種々なる状態は、肉体の状態と常に相関関係にある デカルト的二元論の主張と同等であるかのように見えるが、「しかしながら魂の全ての能力はかくのごとく脳の組織そのものならびに体全体に依拠しており、否明らかにこの組織そのものにほかならない」とする主張は、精神(魂)の非物質性を擁護するデカルト的スピリチュアリズムからはかけ離れた唯物論であるといえる。 「魂は(略)脳髄の中の感じる力を持った物質的な一部分」であり、「他のものはことごとく(脳から)派生したものにほかならない」、理性も道徳も例外ではない。
魂 †「魂とは、それについて人が少しも観念を持っていない空虚な言葉であり、心ある者なら、我々の中にある思考する部分(=脳)を示す以外は、使用すべからざる言葉である」。それゆえ、ラ・メトリにとって「魂」とは、将来的に「脳」の語によって置き換えられるべき語であり、早晩消滅する運命に定められた語である、と認識されている。将来の人間は「精神」、「霊魂」、「魂」などといった語彙を持たないであろう。彼らはただ「脳」とのみいうであろう。 生命問題 †生命現象を支配する中枢は脳である、という主張。 脳は、まごうかたなく、機械全体の主要なゼンマイとしてみなせる この機械論を貫徹することが、ラ・メトリの思想の筋。「生命の原因ないし力」は熱とそれが発生させる運動である(デカルト)。この運動は機械的半永久運動である。それは衝撃力と慣性力という2つの力によってのみ維持されている。 また、博物学的観点から、人間とはいかなる動物であるかに迫ろうとしている。霊的存在、人間、物質的存在という、いわば縦の宗教人間学的秩序よりも、他の動物とのいわば横の関係において類としての人間を定義しようという社会生物学的秩序が重視されている(18世紀哲学の特徴)。 |