ヒョンヒョロ
妙な異星人がやってきて「ヒョンヒョロ」なるものを要求してきた。それを渡さないと誘拐を実行するという。さて、その「ヒョンヒョロ」とは一体何なのか?そして誘拐とは?
考察
これぞ異色作品、という感じだ。ザッと読んだところで、一体それで何を言いたかったのか、大抵の読者はよく分からないのではないだろうか。「ヒョンヒョロ」というタイトル。内容とはかけ離れたギャグタッチの絵柄(これは、当時の藤子F氏独特のタッチであり、おそらくそれを意図したものではないだろう。結果的にそれがこの作品のシュールさを盛り上げている、と私は思う)。実に意味不明の感が強い。
ちょっと私なりの解釈で、これに解説を付けてみよう。
まず、子供は何者かと出会っている。子供は「円盤に乗ったうさぎちゃん」と母親に告げているが、母親はそれを一向に信じようとしない。母親のセリフからして、その子はこれまでに何度か、そうした突拍子もないことを口走ってるらしい。さしずめ「狼少年」の色のある少年。父親は、それを「小さな子に現実と空想の区別なんかつかない」と、母親よりは大らかに受け止めるが、話を信じていないのは同じである。
次の展開。子供のよこした手紙には、「ヒョンヒョロ」なるものを要求する内容が書かれており、要求をのめない場合は、「誘拐」するとある。このとき、誘拐の対象が指定されていないのがミソである。両親は、一応という感じで警察を呼ぶが、実績先行で動く警察としては、当然のごとくそれを真に受けない。
両親も少し心配になる。そこへ、子供の前に、その「うさぎ」が登場する。このあたりから、少年の言葉、また手紙が嘘ではないということが分かってくる。私などは、その対象を不明なままにせず、「うさぎ」を登場させてしまうところが藤子F作品らしい明解な展開で好きなのだが。しかも、その「うさぎ」、少年の親の前にまでのうのうと現れてしまう。両親も結局その存在を認めてしまうのではあるが、最初は、見ても見ぬ振りで意志的にそれを信じまいと努力する。この辺も実にコミカルだ。
ここから話は急展開。警察も、その「うさぎ」の存在を認め、その逮捕が不可能と分かると、最終的にその要求を全面的にのまざるを得ない。しかも、警察は何をしても「うさぎ」の逮捕はできないというのに、当の「うさぎ」は、現場の張り込みまでするように要求してくる。この「うさぎ」、まるで、あまのじゃくな子供が駄々をこねているかのような言動である。
いよいよ最後。「うさぎ」の要求は「ヒョンヒョロ」。しかし、大人たちには、その意味が分からない。「ヒョンヒョロ」とは何か?理解できないので、お金をその代わりに差し出す。「うさぎ」は、それは「ヒョンヒョロ」ではないと激怒。遂に「誘拐」を実行してしまう。「誘拐」、その対象が地球上の全ての人間であったことが、最後に明らかになる。
この話キモは、その「うさぎ」の動向である。見て分かるように、大人たちには理解できないものを具象化したといった感じだ。少年の言葉を受け入れない大人。つまり、大人は常に子供より正しいという認識がある。子供が、自分に理解できない何かをいうと、それを全く受け入れない傾向。実は、この作品では、それを風刺しているのではないかと思うのである。そして、その「うさぎ」は、否応なしにそれを大人に信じさせるという立場を演じている。
結末。大人たちは「ヒョンヒョロ」を、最後まで訳の分からないものと理解できず(というか、理解しようとせず)、見事に悲惨なエンディングを迎えてしまうのだが‥‥。子供は、時に訳の分からないことを喋り出すかも知れない。しかし、親や周りの大人たちが、それを全く聞き入れないのは、どうだろうか。少なくとも、子供は大人たちに何かを伝えようとしてコミュニケーションを求めてくるのであって、何の動機も無しに何かを喋ることはないのである。頭ごなしに否定するのではなく、もっと柔軟に子供たちの話に耳を傾けた方がいいのではないか。藤子F氏は、常に子供の見方だった、そんな気がする。
これは、昭和40〜50年代当時の学歴社会最盛の頃の作品で、教育一辺倒、とにかく大人の言うことを聞け、という時代に向けて訴えられたメッセージであったかも知れない。でも、今のこの時代、子供と親のコミュニケーションが少なくなっている社会、それに起因する問題も次々と浮き彫りにされている現代にも、十分タイムリーな物語だろうと、私は思うのである。
収録
- 小学館 ゴールデンコミックス SF短編集2 (絶版)
- 小学館 小学館文庫 異色短編集1
- 小学館 小学館叢書 異色短編集1
- 小学館 藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版1
- 中央公論社 愛蔵版 SF全短篇1 「カンビュセスの籤」 (絶版)
2000年7月現在
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