ボノム=底抜けさん=
底抜けにお人好しな仁吉(ひとよし)。どんなに馬鹿にされ、また、暴力をうけても、絶対に怒らない。そんな彼には、ある信念があるという。その信念とは一体。
考察
本編に登場する主人公の仁吉氏は、まさに底抜けにお人好し。それ自体、あまり興味のあるものではない。この話の面白いところは、この主人公の信念とするところ、その思想である(と、私は思う)。なぜ、何をされても怒らないのか?また、そんな感情も湧かないのか?仁吉に言わせれば、人間はみんな“あやつり人形”だから、そんな人形に怒っても仕方がない、というのである。何を言い出すかと思えば!?では、その仁吉氏の理屈を考察してみる。
「そもそも人間の行動とは何か。人それぞれの性格が外界と反応しておきる現象だ。」 なるほど、その通り。「しからば性格を決定するものとは何か。環境と遺伝子だ!!」 ははあ、つまり、人間は環境と遺伝子に操られている人形、というわけだ。「人形のすることに怒られますか。人形に責任を問えますか。」 確かに。しかし、その人形に感情があり、自分その人形なのであれば、同じ人形がすることに対して怒りの感情を持つのは自然なことである。仮にそれが操られた結果であるにしろ、成り行きなのだから仕方がない。しかし、逆に操られている結果に対して怒ることに意味があるか、といえば、あまりないのも事実である。仁吉氏はそれを信念としているのだろう。
さて、実社会で本当にこれを信念として生きていけるものなのか?多分、現実にまみれていると、自分が人形である、などと考える余裕もなくなってしまうだろう。それが現実というもの。ただ、もし仮にそんな人間がいたらどうなるの?という仮定が、この仁吉氏であろう。
ドーキンス氏(ノーベル医学生理学賞受賞)の言葉で“利己的な遺伝子”というものがある。遺伝子は、常に自分が生き残る最善の方法を採ろうとしているのであり、人間はその遺伝子の乗り物に過ぎない、というのである。仁吉氏の思想は、この考え方にどこか似ている。現象としての人間に怒ったところで、そこにある事実が何ら変わるものではない、確かにその通り。しかし、そういう感情を持っているのもまた、人間という在り方であると思う。長々と演説した後帰宅した仁吉氏。そこには、息子同然に慕っていた男と交わる最愛の妻の姿があった。妻を愛する、という、仁吉氏にとって唯一とも思える感情をうち砕かれたそのとき、残ったのは信念のみだった(?)。
収録
- 小学館 藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版1
2000年7月現在
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