アチタが見える
もし、わが子に予知能力があったら‥‥。未来を見ることのできる娘を持った両親の期待と苦悩のストーリー。
考察
未来を予知する予言者、というのは、大抵宗教臭い理屈を並べる大人達である。彼らは、独自の論法で予言を正当化し、壮大な神話を作り上げているが、あまり説得力がない。むしろ、無邪気で何も知らないはずの子供が、ストレートに「こういう明日が見える」という方が、数倍信頼が置けるように感じられはしないだろうか?
ストーリーを追ってみる。
主人公は、チコという、一見どこにでもいそうな少女。最初、彼女はパパの迎えに行くといって、傘を三本持って出かける。その時点で雨は降っておらず、パパがバス停に着いた時点で降り出した。しかも、パパの友達の五十嵐氏も一緒であった。初っぱなから、この少女は、雨が降ること、パパの友達が一緒であることを、同時に予知していたことになる。
こうしたことは、以前にも頻繁に起こっていたらしい。パパが谷川で溺れそうになっている姿が、チコには、パパが泳いでいる姿が見えた、といって、山へ行こうとするパパに浮き輪を持たせようとした例がある。チコには、理屈ではなく、そういう映像が見えていたのだ。最初の傘の話もそう、雨の中お客さんを連れて降りてくるパパの姿が見えた、といっている。
解析的、理論的な理屈ではなく、直感や、そういうイメージとして認識する、というのは、人間の右脳による認識の特徴であることが知られている。最近になって研究も盛んになってきたのだが、透視だとか未来予知などは、その右脳による認識が大きく関係しているのではないか、といわれている。特に、常識や理屈にとらわれない幼年の子供は、全てを柔軟に、直感的に捉えることができる。これが、ある程度成長してしまうと、その経験にあるパターンと照合して、常識非常識の判別を無意識にしてしまう。理屈に合わないと判断されたものは、認識から除外されてしまうために、右脳型の認識は廃れていく。
つまり、まだ何も知らない子供達には、純粋な世界そのものが、常識や先入観などのフィルターなしに見えているのである。比較的年齢の若い子供に、こうした能力(いわゆる、透視、予知などのESPといわれているもの)があるのは、この右脳型認識が優勢であるためなのだろう。後に、チコを新聞記者が訪ねてくる。彼は、チコに政治や経済、社会情勢の未来について質問する。内閣の行く末、米大統領の未来、円の切り上げはなるか、ガンの退治法は発見されるか、火星着陸はいつか、来年の十大ニュース、など。しかし、これらは、いずれも抽象的なものであるため、また、そもそもチコ自身の認識の範囲外であるために、何も見えないようである。チコに予知できるのは、あくまでチコに理解できて、しかも具体的なイメージ(映像)に結ぶことができるものに限られている。
さて、もし、その予知能力が本物だったなら、やはり人間くさい話も出てくるのが常。霊感占いをはじめるとか、競馬や株に利用するとか、テレビに出演するとか、まぁ大人の都合で好き放題な話が飛びだしてくる。実際、チコは宝くじまで当ててしまった。ただ、そんなバラ色の未来ばかりが見えるとは限らない。未来予知の影の部分で、人の不幸な運命さえ平等に見えて当然だ。
五十嵐氏は、チコの描いた絵に青ざめることになる。そこには、トラックにはねられる自分の姿が描かれていたのだ。単なる子供の空想にしては、あまりにブラック。チコには、また来るべき未来が、そういう映像として見えていたのだ。その後、五十嵐氏は、ぱたりと会社へ来なくなってしまう。外を出歩くと、車にはねられる可能性があるからだが、結局、五十嵐氏の自宅に、トラックが突っ込んで不幸にあってしまう。
決定してしまっている運命は曲げられないということか。チコのママは、五十嵐氏がチコの予言を聞くことも、その運命に組み込まれていった、といっているが。
最後のワンシーン、新聞記者がチコの両親について質問した場面が伏線となっているが、チコは、未来の両親を、今の両親とは違う二人を絵に描いている。本当の両親は別にいるということなのか、近い将来、チコの両親は何らかの形でチコの前から消えてしまうということなのか、取り方は様々だが、知るべきでない未来も知ってしまうことにには、やはり疑問符があることを感じさせる。
収録
- 小学館 藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版1
2000年7月現在
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