FF語録
藤子・F・不二雄が世に送り出した名作の数々‥‥。奇妙奇天烈なキャラクターが、素朴な日常生活の中から展開する不思議世界。このミスマッチにこそ、藤子・F・不二雄ワールドの魅力があったといえる。そんな世界を次々と描き出す「藤本弘」とは、一体どんな人物だったのか。

ここでは、藤子・F・不二雄を、漫画家として、また人間「藤本弘」として考察してみる。藤子・F氏が残した数少ない言葉の中に、氏の様々な思いや価値観を覗くことが出来る。

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「まんが」の中には、未来の国があり、冒険の国があり、ふしぎ の国があります。

「藤子・F・不二雄 まんがゼミナール」(小学館)より


藤子F作品は、基本的に日常生活が舞台となっている。まず日常生活からはじまり、そこからとんでもない世界へ移行していく、この流れは藤子F氏の作品一連に共通しているようだ。例えば、言わずと知れた”ドラえもん”についていえば、何をやってもダメな少年のび太がいる日常世界に、未来の国からへんてこなネコ型ロボットがやって来た、この時点で日常からはずれていくことになる。

藤子F氏自身、「どんなにとっぴょうしもない世界を描くときでも、片足は日常についている」とおっしゃっている。その方が、読者も自然にその漫画の世界へ入っていける。漫画は、読者の視点を主人公の視点にもっていくことでより楽しめるものになる。読者をストーリーの主人公に共感させその世界を追体験させていく、これはストーリーに読者を引き込む常套手段だ。日常世界あってのとんでもない世界、未来の国も、冒険の国も、そしてふしぎの国も、日常生活があってこそのものなのである。

ぼくにとってのSFは、サイエンスフィクションではなくて、「少し不思議な物語」のS(すこし)F(ふしぎ)なのです。

「藤子・F・不二雄の世界」(小学館)より 


藤子F氏自身では、自らが描くSFの世界とは「すこし・ふしぎ」であると定義されていた。これは、やはり日常からは離れられない、日常に少しアレンジを加えて奇妙で、滑稽な世界を描いていた、というあたりからの意識だろう。

藤子F氏のSF作品は、十分なSF(サイエンスフィクション)になっていると感じる。例えば、異色短編として収録されている作品の中に”どことなくなんとなく”というタイトルの作品がある。この内容は、おおざっぱに、いま経験している日常というのは、実は全て自分の中だけの妄想であった、というもの。この発想は、あまりに大胆で、今の閑散とした世の中の裏を突いた斬新なSFである。

サイエンスであるかどうか、は、この際問わないで、その内容にどこまで奇抜さを求めていたかを考えれば、ありきたりのSF小説などには引けはとらない。

漫画はおかしなもの、滑稽なもの、それが全てみたいなところがあったけど、それだけじゃないんじゃないか って気がしてきましてね。漫画っていう形式で、もっといろんな要素を表現できるんじゃないか。

「未来へのメッセージ 手塚治虫の世界」(1993年 NHK BS放送分)より 


手塚治虫の漫画を通して、藤子F氏はこんな衝撃を受けたそうだ。映画的な手法によって描かれる決して笑いだけに終わらないシリアスな世界。ここに、藤子F氏のSF、すなわち「すこし・ふしぎ」の原点があったといえる。おかしなものだけじゃない、もっと複雑な要素、人間模様、社会現象、そして空想科学などに漫画という表現手法で迫れる面白さ。これは、おそらく藤子F氏を魅了し続けていた、漫画という表現形式の最大の魅力だったろう。

藤子F氏自身で「漫画で全てを表現できるとは考えていない」というコメントも残されている。これを見極めた上で、では、漫画という形式でどこまで表現できるのかという可能性にも迫っていたようにも思う。まさに異色短編はその現れで、ドラの世界も、この延長線上にあるものではないだろうか。

プロってのは、締め切りがあって、依頼を受けると締め切りまでになんとかまとめるのがプロなんですよ。これはサイクルを繰り返していくうち、だんだんそういうものがシステムとして自分の中に入ってくるんだけども、たまたま初めてうちに帰ったら、そういうものが切れちゃったんですよ。まるっきりアマチュアになっちゃったわけです。何をどう考えれば漫画がかけるのかまるでわかんなくなっちゃって。

日本テレビ系 EXテレビ 1992年放映分


昭和31年、藤本氏が上京してプロ漫画家として成功した後、初めて故郷の高岡に帰ったときの起こった事件。そのとき持っていた連載9本のうち、その2/3である6本をも落としてしまったときの氏の状態を、ご本人が語ったものだ。やはり、プロ漫画家としてのシビアさと、逆に、漫画を描くって、どういうことなのかを改めて考えさせられた瞬間でもあっただろう。

既成概念を寄せ集めて、新しいもの に変身させる

「藤子・F・不二雄 まんがゼミナール」(小学館)より 


結局、漫画は既成概念の寄せ集めであるというのが、漫画を描く上でのセオリーというか、基本原理であるようである。人間は何もないところから、何かを想像することは出来ない。自分の中にある経験上の記憶などの組み合わせで新しいものを作り出している、とんでもないものを想像しようとしても、それは既成概念の寄せ集めにしかならない。

藤子F氏は”ドラえもん”をこんな風に分析された。ドラえもんは、未来の世界からやって来たネコ型ロボット。未来の世界、というのは昔からある既成概念(もはやできあがっている考え)のひとつ。そしてロボット。これもチャペックが「ロッサム世界ロボット会社」を書いて以来、誰もが知っている周知の断片。ネコなんてのも、その辺をうろうろしている存在。これらの寄せ集めが”ドラえもん”である、と。

つまり、漫画は材料集めが命ということになる。自分の中に様々な経験や知識があればあるほど、よりバラエティに富んだ作品を生み出すことができる。

あれは学校だったんじゃないでしょうかね。みんな トキワ学校 に入学して、あそこでいろいろ身につけていったという‥‥。

「驚きももの木20世紀(トキワ荘の時代)」(ABC放送分)より 


藤子F氏はトキワ荘時代のことをこう語っている。漫画家の梁山泊とまでいわれたトキワ荘。当時は漫画というもの自体が、くだらないもの、教育上悪いものというレッテルが貼られ、漫画家という職業は、先行き何の保証もない異端的なものという考え方がまだまだ強かった時代だ。そうした不安を一掃し、貧乏暮らしを楽しくさせたのは、その漫画という共通のものを掲げて集った仲間たちだったわけだ。まさに、藤子F氏の青春がここにあった。

(ドラえもんを)僕はまだ描き尽くしたとは思っていない。徹底的に後一滴も絞れないというところまで絞って描いてみたいんです。「ドラえもん」の通った後は、もうペンペン草も生えないというくらいにあのジャンルを徹底的に描き尽くしてみようと。

「トランヴェール H8年1月号」より 


このコメントから、最終的に「ドラえもん」が藤子F氏のライフワークとなっていたことを感じ取れる。「ドラえもん」は藤子F作品のパターンの帰結点であり、藤子F氏のホームグラウンドなのである。自分の一番慣れたそのホームでやれるだけやっておきたいというのは、素直な心理でもあるが、誰しも夢見て挫折する厳しい道でもある。それを藤子F氏は見事に完遂している。

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