* ゲーデルの理論 [#fd5ad9b8] クルト・ゲーデル(1906-1978;オーストリア)は、ある無矛盾な公理系について、それが証明も反証もできない命題が存在する、或いは、自身をその公理系によって証明することは不可能である、ということを指摘した。 - [[クルト・ゲーデル - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB]] - [[不完全性定理 - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E4%B8%8D%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86]] *** アリストテレスの論理 [#n448b507] あらゆる事柄は、論理的演繹法によって論ずることが出来る、とするもの。 前提、もしくは仮定(自明なこと、証明しなくても真として受け入れられること)と、そこから導かれる推論(そう推論する規則)という流れによる説明方法。 典型的なのは、ソクラテスの三段論法。 1.人間は必ず死ぬ 2.ソクラテスは人間である 3.ソクラテスは必ず死ぬ 1が成立する。かつ、2が成立する。 ならば 3が成立する。 1と2は前提。そして自明。であるなら、そこから3が推論されるのは妥当であろう、という導出。「もしすべてのXがYであり、かつ、ZがXであるならば、XはYである」という規則が発動している。 - [[演繹 - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E7%B9%B9]] - [[帰納 - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E7%B4%8D]] *** ゲーデルの発見 [#u13cb075] たとえ真の状態が存在する、と仮定しても、 その事実を、全て論理的演繹法によって証明することは不可能である。 自分たち(私たち)が「知っている」事柄について承知はしているが、感じている事柄については、論理的演繹法によって説明することは''絶対に出来ない''。論理的演繹法では、全てを証明する方法としては不足であるという主張。 *** 論理哲学論考 [#pbe5556f] 言語学者ウィトゲンシュタイン(1889-1951;オーストリア)の著書。文の構造とその分が主張する事実の構造との間には何らかの共通点がある、という教義。 思考の中で世界を表象することは論理によって可能となるが、論理命題は元来ひとりでに何らかの世界の現状を表象しているわけではない。従って、論理はどんなに客観的実在性を表現するのにも必要ではあるが、論理だけでは十分ではない。 ウィトゲンシュタインにとって論理とは、現実は少なくとも矛盾してはいないという信念で、どの状態が理論上可能であるかを明らかにしてくれるものであった。背反する2つ(以上)の論理は存在しえないということ。 この著書の論点は次のことに集約される。 言語は世界に存在するすべてのものを捉えられるわけではない ゲーデルは、これに数理的形式を与えたともいえる。 ゲーデルが示したのは、どんな類の数学も日常的な真実の概念をきちんと表象するのに見合うほど包括的にはなりえない、言語学の言葉を使って言うなら、どれほど構文論を駆使しても意味論を排除することなどできない、ということである。 ウィトゲンシュタインは、この論考の最後でこう締めくくっている。 語りえないものについては、沈黙しなくてはならない - [[ウィトゲンシュタイン - Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3]] *** 演繹法の限界 [#b4cb754a] 演繹が成立するには、明らかに正しいと判断される前提、仮定が事前に存在しなければならない。その前提に基づいて結論が導かれる。逆に言えば、その前提を証明する必要はない、言い換えれば、前提は証明できない、ということ。 1+1=2 という数式は自明である。これは、あらゆる数論の前提として用いられるが、この等式自体が正しいことを証明することは不可能である。 *** 証明不可能であること [#g4a1657d] 論理的パラドクスの多くは自己言及の概念に基づくものである。 この文は間違っている ゲーデルは、数論の枠組みの内部でこのような矛盾をはらんだかたちで自己言及する陳述を表現する方法を見つけることだった。どこまでいってもつかみどころのない真理の概念に対処するかわりに、「真理」の代用品として明確な形式を与えられる証明可能性の概念を用いることを考えると、上記の文章は次のようにいいかえることができる。 この陳述は証明不可能である この文は、ある特定の「陳述」、即ちその文の中で述べられている陳述についての自己言及的主張である。ゲーデルは自らの数化スキームを使い、この主張をこれに対応する数論そのものの言語で表現された自己言及的で超数学的な陳述によって、次のように符号化することができた。 証明することができれば、この陳述は真である。従って、この陳述が述べていることは真に違いなく、この陳述は証明可能''ではない''。このように、陳述とその否定は、ともに証明可能であり、このことは矛盾を意味している。一方、この陳述が証明可能でないなら、この陳述が主張していることは真である。この場合、陳述は真であって、なおかつ証明不可能であり、このことは、形式体系が不完全だということを意味している。 ゲーデルは、通常の数論の陳述すべて表現できるだけの力を備えた無矛盾であるようないかなる形式体系にとっても、そうしたゲーデル文が存在するはずだ、と示した。自然数同士の関係をすべて表現できるだけの力を備えたあらゆる無矛盾の形式体系において、その体系規則を使っても証明できない陳述が存在する、ということである。 これは、次のような結論でまとめられる。 数論の無矛盾性は、 数論それ自体を現すどんな形式体系を使っても立証できない。 言い換えると、 数論に無矛盾の形式を与えようとすると、 その形式体系内部で証明不可能な真理が存在してしまう。 //----- //&color(#808080){この記事は書きかけです。編集は}; //&edit(ゲーデルの理論,noicon){こちら}; ----- &color(#808080){この記事は書きかけです。編集は}; &edit(ゲーデルの理論,noicon){こちら}; ----- [[自然科学・哲学系メモ]]