現代社会に見るもの

高度情報化時代といわれている現在、インターネットであらゆる疑似体験ができるようになっている。うちから一歩も出ないで世界中を散歩できる、ショッピングもできる、あらゆる情報も知ることができる、最近は映画やテレビ番組までインターネットを通して見られるようになっている。いわゆる仮想体験、疑似体験、世に言う「バーチャルリアリティ」というやつが横行する中、人間は極度に知的な存在になりつつある。というのは、最終的には脳だけの存在でオールOKなんて事態がやってくる可能性が濃厚になりつつあるってこと。これは、ある意味経済的だが、あまりに無機質で、あまり歓迎できたものではない。

例えば、現代社会をちょっと観察してみることにする。まず、動力の発達で、人間はほとんど力仕事を強いられることはなくなった。そして、電気の発達で自然の力を必要としなくなった。また、ある程度自然をコントロールできる技術を身につけてきた。夜になって暗くなれば、電灯で明るくできる、寒ければエアコンで暖かく保てる。

そして、最も人間を動かない存在にさせたのは通信網の発達だ。電話なぞ、わざわざ用のある相手のところまで出向かなくとも、うちにいながら話ができてしまう。さらにパソコン通信は、相手の顔もわからないのに、気軽にコミュニケーションをとれる、もはやそこに人間の姿は必要ないのだ。

そんな中、人間が人間らしさを保っていられるのは、人間が”感情”を持っているからに他ならない。これがなくなったら、まさに人間は無機的な知性体になってしまう。何か嫌なことがあれば悲しい心境になる、楽しいことがあれば嬉しい気持ちになる。

ところで、すべての感情は”欲求”に起因するところが大きい。つまり、欲求に反することが身の回りで起これば不愉快になる、逆に欲求が満たされれば気分がよくなる。動物が本来持っている「本能」とは別に、人間にはもっと他の「好奇心」から生まれる”欲求”もあるように思う。もちろん、本能も満たされれば、人間も動物の一種だから楽しいには違いないが。

全てを発展させてきたのも好奇心からでた欲求によるもの。何かを知りたいというのは、その対象が何であるにしろ、人間が持ち続けてきた、またこれから将来も持ち続けるであろう永久不滅の欲求である。