心の中で浮かんでは消えていく考えなり、概念について。その知識量というか、文章にすると、これはとてつもなく膨大な量になるだろう。くだらないことから、納得できるようなこと、ひょっとしたらこれは核心を突いているんじゃないか、と思えるような考えもふと浮かんでくることもある。思考の中にあるうちは、そのままの形態で存在していることができる。しかし、それを長時間維持することは難しい。そのままにしておくと、やがて、もやもやとぼんやりしたものになり、やがて思考から消えていく。せっかくスゴイことを思いついたのに、などと思うことも多々。
考えること、思うこと、と、それを表現することは、本質的に別のものなのだろう。思考というのは、そもそもそれを誰か相手に伝えることを前提としていないものである。もちろん、相手に伝えることを前提とした思考もあるが、思考が主体となる場合、つまり、普段私たちが一人で物思いに耽るときなどは、その伝達のことを考えない。
思考のメカニズムというのは、まだはっきりと解明されてはいない。ものを考えるとき、それは言葉で考えているという部分もあるし、イメージや直感で考えているという部分もある。前者は左脳で後者は右脳の働きであることが知られているが、左脳を失っても、理論的にものを考え言葉を喋ることのできる人もいるなど、完全な分業ではないことも分かっている。
ところで、人は大人になるにつれて、左脳が発達し理論的にものを考えることができるようになるが、逆に右脳の使用頻度が減って刺激や情報を“生”で受け取ることができなくなるそうである。つまり、どんな現象を目の当たりにしても、それはまず言葉やそれまでの経験則に基づいたフィルタを介して理解されるというのである。例えば、リンゴが目の前にあるとすると、一般の大人なら、それがリンゴであると知っているし、リンゴという言葉も理解しているから「それはリンゴである」と考える。一方、リンゴなど見たこともなく、それが何者であるかすら知らない子供には、「赤くて丸っこいもの」というような解釈にあるであろう。後者のような考え方は、その後解釈によってどのような変化も可能だが、前者は、それがリンゴである、と決定しており、そこから認識が揺らぐことはない。大人の頭が堅い、というのは、このような理由もあるようだ。
例えば、何かを思いつく。言葉や文字を知っている私たちは、その内容を言葉なり文字なりの形で記録に残そうとする。すると、その正確な形態、思考の原型は失われる。もし、その思考を、脳、また知識同士がそのままの形でコミュニケーションをとる手だてを私たちが知っていたら、言葉や文字の文明である今の世の中とは、全く別のものになっていただろう。