「神」とは

果たして、この世の中には「神」は存在するのか?この疑問は、人類の歴史が始まって以来、最大にして崇高な課題として今日まで持ち越されている。まず「神」を考えるに当たって、その定義から考えなければならないだろう。神とは何か?神なる存在、それは全知全能で、永遠にこの世界に存在し続けるもの、また、宇宙の創造主、この辺が一般的な「神」の位置づけということになるだろう。

考え出せばきりがないが、ここで、神を人格化するのはいかにも宗教的である。ただ、もともと「神」という考え方が宗教的なので、いまさら別のモノを考えることもないだろう、と思われるかも知れないが、神を人格化すると、ほとんど何でもありになってしまう。何でもあり、というのは、それを考える意味が薄くなってくるので、ここはあえてもう少し限定的な「神」を考えてみるとする。

一番早い考え方は、宇宙そのものが「神」、と考えること。つまり、世の中を統率する(物理)法則なるものがもしあるとすれば、それが全てを生み出したわけで、これからの運命もおそらくその法則によって決定されているのだろうなぁ、と考えることができる。人間がその法則を発見できるか、また理解できるか、操ることができる者が現れるのか、また既に現れているのか、この話は、人間が物理的な意味で神に近づけるかどうかという問題にもつながってくる。現時点で、人間は量子力学、すなわちその不確定性原理によって状態をある確率を持った値でしか理解する術しか持ち合わせていない。例えば、その法則を人間が発見できるかどうか、ということもその法則によって決定されているかもしれないわけだ。

余談だが、宇宙人はいるのか?これは存在ということを考えれば、その可能性は大いにあるといえる。人間が地球に誕生したことを考えれば、他の天体に地球と同様の環境が整えば、大体似たような生命体は発生できるだろう。ただ、そこから人間並みの知能を持つまでに発達しうるか、これに関しては、猿がタイプライターをめちゃくちゃに打っていたら、偶然シェイクスピアの名作のフレーズを叩き出していた、てなことが起こるような可能性に等しいと言われている。宇宙の終わりまでかかっても起こらないようなことだが無ではない。事実、地球に人間は存在し得たのだから。そこからさらに高度に発達した知能をもった知性体になることができるのかどうか?可能性はさらに小さくなるが、やはり0ではない。

さて、事実、地球では私たち人類が誕生した。私たちは何処からきたのか?私たちは何者なのか?そして、私たちは何処へ行くのか?生物の進化論もその回答を得ようとした学問の一つだろう。今では分子進化学が発展し、これまでのような化石や標本などから予測する大ざっぱなやりかたではなく、遺伝情報などを見ることによって正確な進化説を立てようとする試みが進められている。結果として地球上では人類が栄えた。これは、適者生存の法則の結果として、最後に人類がその位置に君臨し得たと考えて良いものか?

例えば、宇宙の人間原理という考え方がある。これには強弱2種類存在するが、考え方の基本は、人間が生存しうる環境がこの宇宙である、なぜなら現に我々が存在しているからだ、として宇宙の状態を見ようとする少々我がままな宇宙観だ。これを生命進化に当てはめて考えてみると、最初から人類が生まれる方向で進化が続いた、もっと言えば、生命は人類が生まれるために誕生したのだとなる。強い人間原理に乗っ取って、この宇宙は人類が存在しうるような環境を整えているとすれば、宇宙とは人類の誕生のために用意された場であるわけだ。ただ、無数の生命体の一要因に過ぎない人類が、そこまで過大評価される理由は何もない。やはり、人類も一生命体に過ぎないのであって、過去にあったややの不確定性から、結果的に今の人類が流れ着いてきているのである。

人は全てに何かの意味を見ようとするものである。その根本に自分たちの存在がある。私たちは、一体何のために存在して(させられて)いるのか?何をすべき存在なのか?おそらく、人がこう考えることから、人類を創造した何者かの意志が知りたい、と考えるようになり、「神」という偶像を作り上げてきたのだろう。そんな「神」とは、人には到底及ばない絶対的強大な力を持っていると考える。この力に縋ろうとする人の弱さから、宗教的に飾られた人格神が出来上がってきた、と考えられる。