シュレーディンガーの猫

“シュレーディンガー”とは、オーストリアの物理学者の名前である。彼は、古典物理学の飽和した時代、つまり、物理学というものは既に完成されたであろうとされていた時代を生きた人物の一人であり、ボーアやハイゼンベルクと共に、量子力学の発展に大きく貢献した人物でもある。彼は当時、自分の進む道を、物理学者にするか哲学者にするかで真剣に悩んだという逸話も。

彼はこんな装置を仮想した。ラジウムはある周期でアルファ粒子を放出する。一時間中にそのラジウムがアルファ粒子を放出する確率は50%だとする。これは見た目にはわからないので検出器にかける。また、猫を一匹捕まえてきて、密閉された箱の中に閉じこめ、青酸の入ったビンも一緒に入れる。そこで、検出器がアルファ粒子を検出すると、箱中のビンが割れ、青酸で猫はあの世行き、という仕掛けをつくる。さて、箱にはフタをして、外からは視認できない状態になったところで実験開始。といっても、ただそのまま一時間待つだけなのだが。フタを閉めて一時間経ったところで、猫の身の上を議論するわけだ。果たして猫は参っているのか、ピンピンしているのか?

ここで、量子論の基本的な考え方として、物事を確率的に議論する、ということを理解しなければならない。この場合、フタを開けて中を確認するまでは、猫は50%の確率で生きているし、また50%の確率で死んでもいる、という奇妙な状態であるわけだ。半分死んで、半分生きた状態。その外にいる私たちにはそう思える、いや、思えるのではなく、事実そうなのだ、と考えるところが、量子論がこれまでの物理理論と大きく違う点だ。そんな馬鹿な話はない、と、思われるだろう。実際、箱のフタを開けようが開けまいが、猫は、死んでいれば死んでいるし、生きていれば生きているもの。普段そうした現象の中で暮らしている多くの人は、普通はそう考えるだろう。

アルファ粒子が放出されるか否か、というのはミクロな現象である。これは量子力学によって語られる世界。ところで、猫が生きるか死ぬか、という問題はマクロな現象である。ここがこの仮想実験の面白いところで、ミクロな現象は不確定性原理によって確率的な議論をすることになるが、果たしてそれをマクロな猫の安否にまでその考え方を延長してしまって良いのかどうか、という話。

少し整理してみよう。私たちがモノを認識するとは、一体どういうことか?それは、五感で感じ取り、それを脳で処理する、という行為だろう。つまり、脳でその事象を認識しない限りは、その人にとって、その事象は「ない」も同然の話になる。では、「事象」とは何だろう?それは、そういう事が起こっている、あるいは、その可能性がある、ということになる。ここで、脳がモノを認識する、という行為も、一種の「事象」であると考えられる。つまり、それが、人の五感に作用して脳が刺激を受ける。こう考えると、「事象」とは、相互作用の連鎖である、と考えることができるのではないか。事象は相互作用して初めて存在する。人に相互作用しないものは、つまり、人にとって「ない」も同然の話、ということになる。

ここで「猫」の話に戻って、もう一度考えてみよう。箱の中に猫を入れた。これは確かな事実(私たちの脳が認識している事象)である。その後フタを閉めて、例の装置(早い話、猫を50%の確率で殺す装置)を作動させる。人間の脳は、そこで実質的な議論をすることは不可能である。何せ、それを見ることができないのだから。しかし、論理的に解釈することは出来る。つまり、50%の確率で猫が死ぬ、とは認識出来るのである。それは、脳内での相互作用である、ということは、そういう「事象」は、確かに(?)存在しているのだ。

物理的な相互作用が全くなければ、お互いの情報は隔絶されている。全く別世界に住むのと同然だ。しかし、人は猫が箱に入っていることは知っているし、その装置がどういうモノかも知っている。そうした得られる限りの情報から、ある可能性は導ける。このあたりが、量子論、また、量子力学を一般に分かりにくくしている考え方なのだろうと思う。結局、人間は人間の認識できる範囲で、そこにあるだろう事象を議論するしかない、という、ある意味割り切った考え方なら、その認識さえ事象の一つに過ぎないのだから、論理的事象(確率的にあるないを語る)も、計算に合うのであれば認めようということである。